昭和52年12月7日 朝の御理解
御神訓 一、
「子を産むは、わが力で産むとは思うな。みな親神の恵むところぞ。」
難儀と思うておったことが、お徳の種であると言う事が分かる。その種が十月十日そのおかげが進展してまいります。いよいよ産まれるといわゆる陣痛、そして出産と言う事に、まぁ順調に行けばそうなるのです。それが流産に終わったりする。折角の力が頂けれる、お徳が受けられると言う様な問題を、本当に流産にしてまた宿る。またそれを流産にして、堂々巡りのおかげしか頂けてないという人が、どれほど多いか分らない。生みなす人はほんの僅かである。
昨日のお話の中にも申しましたように、大阪の泉尾の先生の、御神願有難うございますと。まぁ必ず出るあちらのお話の中に出てくるお話ですけれども、もう先日のあちらの記念祭の終わった後に、あの沢山な信者に先生が、信者の中に入って行ってそして一人ひとり、握手を交わしながら言っておられることは、御神願有難うございますと言うて、手を握って歩いておられますですね。分からん意味が。どう言う事だろうと思うておった。今あなたが抱えておる難儀と言うのは、そのままが御神願なんですよと。
だからそれを有難うございます、有難うございますで言うならば。十月十日がたったら必ず素晴らしいとこが生まれるのですから、おかげが生まれるのですから、有難うございますとお礼を申し上げるより他にはないのですよと、私はもうたまたま、昨日一昨日の研修の時に、そのことを分からせて頂いて、大変有難いという話を、昨日はさせて頂いたんですね。御神願有難うございますと。はぁ難儀な問題だ困った。いやその難儀な問題こそ、徳の種だと。今あなたの中にその種が宿ったんだと言うわけです。
だから御神願有難うございますと言う事になるのです。しかもそういう尊い種が宿ったのですから、それが流産になってはいよいよ勿体ない。そのいわゆる生み出されるまでをです、私は大事に大事にしなきゃいけない。どう言う事が流産になるかと。勿論不平不足、御神意、ご深慮も分からずに、ただ難儀な困ったことだと言うておったんでは、おかげになりません。
昨日の御理解の中に、神様は神は荒地荒れ屋敷をお嫌いなさるという御理解でしたよね。私は昨日はそのお嫌いなさると言う事に、非常に強い何かを感じました。そしてそれとは反対に、こりゃ神様から嫌われちゃならん。神様に愛されなければ駄目だと言う事を、昨日は強調したわけです。神様に愛されなければ駄目です。人間ですからどこもここも完璧という人はありませんでしょう。神様からご覧になったら、そのこの男ばっかりは、嫌なもん持っておるなぁと言う所もあるかも知れません。あります。
けれどもどこか一つです。一つのいうなら、神様に感じさせるもの。一つのまぁ言うなら魅力を持たなければならない。そこから神様にいわば、神様がお嫌いなさる反対の、神様がお好きになる、神様から愛されるものが、そこから頂けてきて、そしていうなら見苦しいところ、嫌なところは、神様がそれこそおかばいを下さって。あれもこれも出来たかのようにして、おかげを下さる。いやお徳を下さる事になるのです。何が嫌われるかと言うても、私は我力ほど、神様に嫌われるものはないと思うです。
いわゆる我情我欲です。いわゆる我慢我力です。信心をすれば、我慢我力はいけんと仰る。その我力が。いわゆる、我が強い。それが、私が、私がと言う事になってくるのです。私が作る私が産むと言う事は、本当のことじゃない。みな神の恵むところだとこう仰る。今の教主様のお歌の中に、「なすと言え、なしうる条件恩恵の、なくばなし得ず、何一つとして」と言うお歌があります。どんなになすと言うた所でです。自分に力もないのに我を出す。いわゆる我力でやろうとする。
なすためにはそれぞれのやはり条件というものが、足ろわにゃいけん。そしてその上に恩恵と言うものがなからなきゃいけん。今日はいよいよまぁ決定的な、竹中組、竹中工務店ですか、が見えて、会合があるそうです。さぁほんなら今度あちらへ霊園が出来る、ビルが出来る。そん為には一つ本気で、今度はお役に立とうぞ、御用に立たせてもらおうぞというふうに、まぁ皆さんが感じられる。そこでですほんなら我力で、それを願ったところで成就しません。
いわばなそうと思うても、そこに言うならば、条件が足ろわなければ、出来んでしょうが。例えばお金の百万でも、お供えしようとこう思いましてもです。神様のおかげを頂かなければ、出来ることじゃないでしょうが。昨日あるところから、電話がかかってまいりました。もう大変な、大きな、もう本当に、降って湧いたような、おかげの兆しが見えてきておるのです。ところが、それが、外国との交渉なんですから、もう毎日が、不安で不安でたまらない。
ここまでは済んでここまでは、神様が置いたものを取るようにして、一億もの金が足りないというなら、私の抵当を使うて下さいというような人までが現れてきて、本当に成就一歩手前と言ったような感じがする。もう、不安でたまりませんち言う。だから大祓信行出来よりますかと。不安になったら、しっかり大祓信行をしなさいよと。そうしておかげを頂いた暁の事を考えなさい。おかげを頂いた時にはね。
言うならば、こういうお役にも立たせて貰おう、こういう御用もさせて貰おうと、お礼を申し上げることを、一生懸命考えなさいと。福岡の総代さんで、あの大川に応接台専門に作られる、大きな家具屋さんがあります。もう亡くなられたでしょうけれども、まだ何十年私が福岡でおかげいただいとる時分。あの時分の一万円といや、ちょうど、大きな弁当箱一つぐらいの太さであった。それが、何時も新聞紙に包んでから、ぽんとここに置いてあるそうです。福岡の吉木先生が言うておられました。
もうこの人は儲かった時に、これが自分の金とは、全然思うていない。だから熨斗をかけるとか、水引かけるとかという事じゃない。もう神様のものを、ここにただ持って来たと言う感じだという話をしておられました。ほんならその方が何時も御用が出来る時には、どういう勿論おかげを頂いて。恩恵を受けて、それをなさるわけですけれども。もう三遍大火事に合われた。丸焼けになった。
そのたんべんに火事が焼けるたんべんに、外へ出てから焼けよる、その方の家を眺めながら、この何か帳面のようなものを出してね。もうその次の計画を立てられるそうです、火事を見ながら。そして一番初めに一つ、教会への御礼お届け、幾ら幾らと書かれるそうです。おかげ頂くはずですよね。はぁもう火事でまた丸焼けになった。はぁどうしようか。うろたえられん。表へ出て火事を見ながら、神様の御礼が一番。しかも御礼幾ら幾ら。そして、次の計画をずっと書かれる。
そしてその通りのおかげを受けられるという話を何回も聞いた事がありますがね。私は昨日そのことを申しました。もう不安でたまらんならね。おかげを頂いた暁に、これはおかげを頂いた暁のことだよ。神様への御礼をどうさせて頂こうかと言う様な、そう言う事を思いなさい考えなさいと。必ず心の上に平生心が生まれてくるよと言うて、話したことです。電話でした。子を産むのを自分の力で産むと。おかげを自分の我力で頂こうとする。自分がしてやる自分がすると。私はこれが神様の一番お嫌いになさる心だと思うですね。私は神様から愛されなければ駄目です。
昨夜もう文男さんが、私とこへやって来ましたのが、もう一時だったそうです。昨日はその、昨日の会合は何でしたか、昨日の会合は。あ企画委員の会があった。そしてその後から、すぐ正義先生がやってまいりまして、それで二人でほんなら二人で揉んでもらや、早かけんち言うてからまぁ二人、一本ずつ足を一生懸命揉んで貰った訳です。揉んでもらいながら、話したことでしたけれども。今度文男先生が青年会にお話をしたことが、非常に、まぁ当たったというか、みんなおかげを頂いた。
それはもうそのまんまが、文男先生の信心であり、ここ数十年間のいわゆる、体験ですからもう生き生きとして、話が上手とも思われません。けれどもその内容がね、非常にあの知的であったこと。しかもそれをあの情を持って説いたり、行うたりしてきたことを、まぁひっくるめて言うとです。文男先生がお話を非常にまぁ言うなら、文男さん教学と言うてもいいくらいに、深いものがあるのですね。だからそこを私は知と頂きました。これは私が頂いたんでね。
私が思うたと言うのです。それをあの何とも言えん、一つの情を持って説いております。だから非常に、初心の人にも分かる。ほんなら信心を深めていく人にも、もう一歩踏み込みが足りなかったなと。そしてほんなら私の信心が、いわば使うて減らぬ、金百両と昔から言われるが。私は現在もう百万のお金だけなら、何時も不自由致しませんと、おかげを受けておる事を、こう話すのですから伝わるんです。
それはほんならどういう信心から、それが生まれてきたかと言う事を、いうならば、当時の椛目で修行中のことから始まって、現在の信心を常置のいわば、話をさせて頂いております。とにかくなるほどいわば百万と言う、小さい範囲ではあるけれどもね。その一反なら一反という田んぼから、それこそひとりでに物が出来るような手立てと言うものが、何時もなされておる。
草一本生やしちゃならん。肥料は絶対何時も施しておかなければいけない。手入れは怠らない。それを広く一町も二町もとしとって、何時も草ぼうぼうで、生えるものはない。それこそ、昨日の御理解じゃないけれども、神様は荒地荒れ屋敷をお嫌いになる。大きな願いを持ったところで、それは荒れ屋敷荒地にしておったんでは、どんな良い種を蒔いても生えはしません。だからこれはもう自分なりのもの、一反なら一反の、その田んぼからです、肥をせいでもひとりでに、物がおえてくる様なおかげを頂くための信心。そこには我力があってはならない。もうとにかくまぁ親先生のおかげを頂かなければ。もう親先生と繋がっておらなければ。だからもう親先生と何時も繋がる手立てを、もういよいよ深い知を持ってそれを情で現しておる。
どんなに例えば、昨日も一時もなったから、もう先生はぐうぐ寝とるけんで、もうご無礼しようじゃなくて、やっぱやって来てます。これはその情を持って、いうならば私に繋がろうとしておる精進なんです。そるけんち皆さんが私が足ば、みんな揉みに来るなら、どんこんで来ませんからね。あっはははそれぞれの、そのいうならばあり方を持って、繋がろうとしなければいけないという事。親先生との交流は、そのまま、神様との交流じゃと、というふうに頂いておりまたそれを、お話にしておる。
そこから条件が足ろうてくる。条件が足ろうても、それをお役にも立てようとしない人が沢山あります。いや例えばほんなら、お供えでもしようと思えば、なんぼでも出来とっても、やっぱりそういう事も出来ない人もあります。そこで神様から頂く恩恵と言うものによって、恩恵を受けて条件が足ろうてきて、そして、お役に立たせて頂くと言う様な生き方。神様に私は愛される心とはそういう心。
今日は子供を産むと言う事は、自分の力では出来ない。又はそれがおのずと人力に見切りをつけて神力にすがれば、人力おのずから湧くという、言うなら信心なんです。人力を捨てると言う事はです。もう自分の我力を捨てると言う事。そこからねいよいよ神力にすがられずにはおられん。もう本当に親だ子だという情感。それこそ泉尾の先生じゃないけれども、御神願有難うございますと言うような、あり方をもってすがっていく。そこから我力が、影を潜めてくる。
そこから神力がいうなら、恩恵という事になってくる。次に条件が足ろうてくる。そうした時に、おのずと、気張れる力というものは生まれてくる。おのずと気張ってくれる、便所に行きたくもないとに、便所に行って、幾ら気張ったって、同じことでしょうが。やっぱりここに気張らずにはおれないように、おのずとそういう気張る力というものが、生まれてくる。それによらなければです。本当のおかげを生み出す、徳を生み出すという事は出来ん。みな親神の恵むところぞと。
昨日正義先生が、今度の報徳祭には、近見市長のお話を聞くことに決めておりました。その前日見えて、今度ヨーロッパ旅行で、もう本当に先生が言われる、あの寒天危地と言う、あの寒い天に危うい地と言う、あれがも、実感がそのまま、あのソ連それからヨーロッパ諸国に、それを感じてきたと。もう日本ぐらい有難いとこはないですよと。もう少しほんなら、文化の程度が高いとか、少しここは裕福だと言う所は、もうそれが爛熟しきってしまって、それこそただれたような状態たと、こう言うておられる。
これはフランスの状態を言っておられました。もうとにかく肉一切れ魚一切れ買うでも、長い行列のなかに、とにかくあの食料が欲しい、自由が欲しいというのが、もう私の見てきた大体の全てだと言っておられました。そういう逼迫したもう本当に、先生が言われる寒天危地の様相が、今のソ連ヨーロッパのほうでの、まぁ私の実感であった。だからこの話をどうでも、皆さんに聞いて頂きたいと思うと言うて、私が、送り出しに、廊下の所で、それを言われるんです。
そんなら廊下ですから、そんなら折があったら、是非お願いしますと言うて別れておりましたから、翌日昨日正義先生が、市役所に行く用事があると言いますから、ほんなら近見さんに改めてお願いをしてきてくれと。十六日の御大祭に参拝と同時に、ほんなら講話をお願いしますと言う事を。そんならそらもう参りましょうと。そんなら講題は。もう寒天危地がいいでしょうと言った様な事で、講題まで大体決まっとった。ところが秘書が色々調べたところが、ちょうど十六日の日は会議がある。
もうとにかく三時までぐらいかかる感じの会議だそうです。だからそうすると、合楽には間に合わんと言う事になってご無礼になるから、まぁ向こうとしても、本当にお参りでもして、お話も皆さんに聞いて貰いたいと思うておられたけれども、まぁ結局流れたというわけですけれどもね。本当に、言うならヨーロッパ諸国に、その寒天危地を感じてこられたと、これはもう世界全土に言えれることなんですけれども、その中でも、日本は、裕福、裕福と言うが、恵まれ過ぎておるという、そこにです。
本当にもう少し有難いというものを感じて、御礼を申し上げる心を、先ずは作って、そして、その上に、私は、願う信心というものがなされなければならないという風に、昨日は、正義さんの話を聞きながら思いました。はぁ市長がその寒天危地と言った様な事をですね。講題にしようとこう言う。まぁそういう意味合いでならば、それは内容はそれこそ、危機迫るようなものが、日本にもありますけれども。
日本の人達は先ずはです。本当に恵まれ過ぎておる事の喜びを頂いて、分からせて貰うてそしてからの願いに立たなければならんなと言う様な事を感じた子を産むはわが力で生むと思うな。言うならば、昨日の御理解から引き続いて、神様に嫌われる。言うなら神様に愛される。どっちを取るか。愛されなければつまらん。為には、神様が、ほんなら、何を一番嫌いなさるか。言うならば、不平不足、いうならば、日本のように恵まれておっても、日本全土が、不平不足に満ちておる。
だから御道の信心させて頂く者だけでも、やはり御礼を申し上げる心と言うものを作らせて頂いてそして神様が、一番お嫌いなさる、自分の言うならば嫌われちゃならん。その嫌われちゃならんなら、一番嫌われたところを取らなきゃいけない。改まらなきゃいけない。それは我力である。私がと言う我である。それを先ずは取らせて頂いて、神様に愛される、そしておのずと気張れる力を頂いて、いよいよ有難いものを生み出していくおかげになっていかなきゃならんと思うですね。
どうぞ。